2022
07.08

頭の良さって偏差値なの?(ゆうき)

シリーズ1「マイベスト違和感」, メンバー記事

僕は、日本の、偏差値の高い大学に行くために、偏差値の高い高校に行き、高校の先生は入試で合格させるための授業をし、入試を合格することが目的の塾に行き、そしてその塾が数え切れないほどあり、受験期には自分の興味のあることを中断して受験勉強する、なのに入試に必要な能力と社会で必要な能力とのギャップがあること。この日本の偏差値主義に違和感を感じています。

例えば、僕たち高校生の中でも他の学校の生徒がいた時に「◯◯高校 偏差値」って調べて、アホやなーとか、賢いなーとかいう。確かに偏差値の高い学校の生徒の方が、勉強することへの意識が高いことが多いと感じるところもあるけど、「偏差値以外の勉強」が得意な生徒は偏差値の高い高校が、勉強への意識が高いために“少し多いかな“、という具合であると思う…社会で必要な能力やリテラシーをつけるための教育を学校でしずに(コミュニケーション力や問題解決力、個性とか)、入試のために答えが一つである偏差値を上げるための勉強を授業でして、偏差値の高い学校に生徒を合格させるために先生は授業することが多い(進学校は特に)。

生徒の親も偏差値の高い学校にいれさしたいと思っているから先生は本当に必要な授業をしたくても、周りににらまれてできない…海外ではそこまで重要視されない偏差値を重視して受験期になったら大勢が自分の興味のあることを中断して入試のための勉強に集中する。これからの社会で必要なのは個性とかの自分の興味のあることの方がとっても大事でこんなに偏差値に取り憑かれているのは先進国と言われる国の中では日本だけだと思う…順位をつける、争うというのがダメだということではなくて争うものがおかしいということです。
確かに受験では同学年の生徒があれだけ熱中して一つの「偏差値をあげる」という目標に向かって努力し、レースをする。その勉強の方法やどうやって偏差値を上げるかを考えること、忍耐強く努力すること、そしてその結果がわかる、これは受験のメリットだと思います。
しかし、この問題点は偏差値の高い人と社会で活躍する人が全く違うということです。日本が強く、成長していた高度経済成長期では同じモノを正確に作れば物が売れ、説明された同じことを正確に覚えて繰り返すスキルが求められた。授業で言われたことを覚えて、暗記し、それを答えが一つのマークシート式のテストで答える。しかしこれからの時代は第四次産業革命により、AI、IoTが発展し、新たに、人とは違う付加価値の高いものを創造する力な必要なのです。この時代では「非認知能力」と呼ばれる「偏差値以外の勉強」が必要だと思います。

例えば、ただ単に知識が多い偏差値が高い人ではなくて、AIにはない「人間力」、答えが一つでない問題を発見解決する「問題発見解決力」、共同する上で必要な「コミュニケーション能力」、付加価値のあるものやサービスを創る時に必要な「創造力」「個性」、そしてどんな時でも考えるときに必要な「論理力」などです。
なのに受験があるから、これらの能力を伸ばすための勉強をしにくく、受験のせいでいろんな他のことをする機会が奪われていて、「これしたいけど、そろそろ受験だからできない」とやめてしまう。その受験勉強のための学校でしている勉強と社会で必要な能力のギャップが違和感です!

また、ではどんな授業をしたらいいかと言うと一方的な受け身の授業ではなく、生徒が主体の授業です。そして授業で勉強する内容は「キーワードの暗記」ではなく、論理的に考え、問題を解決する力です。最近は少しグループワークなども増えてきましたが、やはり通常授業では先生が教科書を見ながら説明し、生徒は静かに先生の話を聞いてノートをとる、この授業が多い。
そして例えば特に社会科では「キーワードの暗記」、〇〇年に〇〇が〇〇を起こした、などの単語での歴史を記憶することが多い、しかし必要なのはその歴史に対して、なぜ起きたか、必要だったか、その歴史から何を学べるかなどをグループで議論し、議論して考えた意見を他のグループにわかりやすく伝える力です。
例として社会科を挙げましたが、重要なのは暗記の授業から、考える「問題を発見解決する力」などをつける授業をすることです。ただ、受験があるせいで先生は受験の偏差値のため勉強しかできない。しかも受験のせいで自分の好きなことを中断する。この日本の教育を変えたいです。